カタカナ語

自分もつい使ってしまう事があるが、安易にカタカナ語を使ったり、その観念を使う日本人はどのような感覚でそれらを使っているのだろう。

 

例えば、「ハグ」する、「〇〇を誇りに思う」、「シュドビー」は、「良い一日を」等々、日本人が使う所を聞くとなぜだか違和感や恥ずかしさを感じることがある。

 

勿論、自分も使うことはある。ビジネス用語等その単語がそれを表すのに最適(日本語では微妙に違う、観念自体がない)だから使っているのに、敵国の奴!と言わんばかりに食って掛かってくる輩には困ることはある。それに日本語にはない感情表現などがあり、これは自分の思いを表現するのに、適切であると思うこともある。

 

ではその、人が使っていて感じる違和感は何なのだろう。自国の文化を深く知らないが為、本当は日本にもその表現法があるのに、外国の言葉を聞いて良さげだ、と安易に引っ張ってきているからなのか。又は、いくら勉強しても習得できない英語に対する劣等感からきてるからなのか。

 

潜在的に自分の意識していない部分で、外国の文化の方が良い、格好良いと思っていることに起因しているところはないだろうか。

 

今一度、自国の文化を見直し振り返り、日本人らしさ日本人の特性というものを見つめ、それに合わせた日本語を使っていきたいと、思う所である。良さそう、英語ができると見られそう、と思うだけで安易に使ってしまうと、自分達独自の日本人らしさも奪われてしまうようである。