能力

昔から天才扱いされることが多かった。

勉強などしたことがない。それでも「勉強ばかりしているんでしょう」と同級生から言われたりする。勉強ってなんだろう、という感覚の世界だ。そのうち、本当に勉強をしていないのだなということを同級生たちは察し、自分(筆者)を「天才」と呼び始めた。拝みにくるものまでいた。手をすり合わせてくるから、何をやっているんだと尋ねると「天才様を拝むとご利益があると思って」などと言う。天才様という神様にみえたらしい。

こちらからすると、小学生のくせに「ご利益」という言葉を使うこと自体凄いし、自分(筆者)が勉強していないことが、どうして分かるのだろうという位(勿論、家に来てずっと筆者を監視している訳でもないのに)、察する能力が高くて凄いということになる。

同級生たちは、和気あいあいと楽しそうに話しをしている一方、自分には何をその子達が話しているか分からない。皆と同じ感覚でなければならないかと、彼らの所作を真似しようと思うこともあるが、どうも自分には、馴染まない。全く、脳の構造自体違うのだ、おそらく。

天才と呼ばれるのは気持ちの良いものではない。何も努力しなくても良い評価を得るずるい人みたいだからだ。でも、授業で教師の話を聞いていれば、それ(その内容)をテストの答案用紙に書くだけだから特にすることはなかった、それだけだ。

同じ年だからと言って、脳の構造が同じ(似通った)子達ばかりではない。昔は同じ地域の中で、そのコミュニティの中でのその家の役割があり、違いが尊重されその役割をそれぞれが果たしてきたのであろう。この人はこういった役割だから違って当然のような暗黙の了解があった。うちはリーダーの家系だ。ものを考え、計画をし人や材料を調達し、指令を出していく役割だ。指令が間違うと皆が倒れてしまうから頭脳は高くなければならくそれが当たり前で、その上感覚も研ぎ澄まさねばならない。だから遊びに興じることもない。重責を負っている。リーダーは少ない。その他大勢はそれに従って行動することで果実を産み出しその利益を受け取る。その他大勢はその中で仲良く会話をして協力してやっていく必要がある。だから我々とは違うのだ。その他大勢というと下の者達のような言い方に映るかもしれないが、そうではなくそういった役割なのだ。

同級生の多くは、楽しそうに噂話などに興じていたり、何となくを察する能力に長けていたり、自分とは違った能力を持っていた。それで一つのコミュニティが完成しているのに、現代は違っていると疎外感すら感じ得る。

地方のコミュニティはほぼほぼ崩壊している現代、その脳の違いを認識し最初から区分けするのもいいのではないか。自然にその能力の差を尊重する社会は崩壊した。差別というが、才能を守る行為だ。一定以上の能力を持つ子供は少なくそれ以外が多いから、そうそう(大多数が)排斥されることはない。危ないのは、数が少ない方だ。

それぞれに能力がある。それぞれに適した役割や場所がある。それを尊重する為、それを発揮させる為、適切な区分けそれも考えても良い頃ではないか。

オーガニック料理は単に昔の当たり前の食事

オーガニック料理というと何だか高級で今流行りのお洒落な食事のように聞こえる。何のことはない、昔の日常で食べる当たり前の料理だ。農薬も肥料も使われていない米や野菜・新鮮な魚介類を使い、食品添加物を入れず手作りの調味料を使い家庭で作る、日本の食卓の手料理だ。

昔と言ってもそんなに昔でない。昭和の時代には当たり前だった。家族がほぼ無農薬の野菜を自家消費や近所の人等に差し上げる目的で作り、魚屋が漁港から新鮮な魚介類を自宅前まで運んできてくれる。それで、主に母親が料理をする。出来立ての料理をいただく。

それが、本当に美味しかった。というか、当たり前過ぎて感謝が足りなかった。野菜も魚もとても美味しいから沢山食べた。今言われる、野菜は身体に良いからとか魚のDHAは頭に良いから、とかではなく単に美味しいからだ。無理に食べようとするものではなかった。新鮮でまがい物のない美味しい米・野菜・魚介類は美味しいだけでなく健康な身体を作ってくれていた。だから体力も抜群にあったし病院に行くこともなかった。格闘技のような球技を部活にしていたので捻挫や突き指は日常茶飯事でそれで行くことはあったが。

ところが今はどうだ。野菜の作り手は高齢になり、その下の世代は畑に出向くことすら殆どなくなった。毎日のように来ていた魚屋はこれも年と共に廃業。子供世代は継がないという。家で毎日料理をしていた母親は今の世代では仕事に行くようになりゆっくり料理もしていられない。もう健康的な食の崩壊だ。

野菜はスーパーに並べる為にきれいでなくてはならないから農薬まみれ。魚もスーパーに運ばれるまでに延々と時間が掛かる。昔は蓋を開ける(魚屋の車に乗っている其々の魚の入った箱の)と勢いよく飛び出てきた海老等見る影もなくなった。

今、オーガニック野菜を買おうとすると、遠くまで出掛けなければならないし値段も高い。魚も水槽で泳いでいるものがいるような魚屋もあるが、遠い。余程暇な主婦が居る家庭でないと、毎日仕入れに行くのは難しい。偶の休日に行く位だ。昔の日常が今の非日常になってしまった。家にシェフを招きオーガニック食品を扱っている店で買い物をし作って貰う人もいるが、ほんの一部の人だ。

 

現代社会は、便利になったというものの、本当に大事なものが失われてしまった、それに皆気付かない。母親も仕事をする等して、昔より各家庭にお金が入ってくるようにはなっただろう。しかし本当に大事なものが買えているのだろうか。エンターテインメント・旅行・教育にと昔と違う経験が誰でも気軽にできるようにはなったかもしれない。でもそれは何の為、何と引き換えに得たものだろうか。空虚な生活、誰かがお金儲けの為に提供した物・サービスを消費する世界にまみれ一体我々はどこへ行こうとしているのだろうか。

 

生きている意味

生きている意味など誰にも分かる筈もなかろう。

人は生きる為に生きている。

お金を稼ぎ生活をし、もっともっと豊かな生活をと追い求める。

それはそれで良いだろう。

しかし、それを他人と比較し、もっともっと他人より高価なものを高価な体験をと追い求めることは、誰かに仕向けられているだけなのではないか。

人は、暇なのだ。やることがない。だから少しでも人より優位であると感じたい、その為にお金を稼いでいると思うのは氣のせいか。昔と比べて便利で楽な世の中となった。苦労せず、美味しいものを食べ美しく着飾って豪華な家に住む、それが可能になった。苦労せずとは、昔の人と比べてということで、自分達は苦労していると勝手に思っているのだろうが。

世間からもてはやされ、テレビやSNSに引っ張りだこになる。大した仕事をしていないのに、単にお金を稼げたということで、皆の注目の的になる。それはそれでいい。いいとは思う。やはり人間の性だ。いい生活をするのが目的となってもおかしくはない。

しかし、何か変だ。誰かが作った楽園や贅沢なものやことを消費するために、お金を稼ぐその稼ぎ方も誰の何の為のビジネスの為に時間を提供して得たお金なのであろうか。考えるときりがないが、考えないと流されて誰かの目的の為に自分の大切な人生を消費させられてしまう。

人生の目的等考えても分からない。しかし、日本の為に役に立つ仕事、困っている人を助ける仕事、自分の仕事を極める研究、その業界を盛り上げる為心力すること、自分の親が築いてきた仕事を引き継ぐこと 等々人生の目的にするに値する仕事をすること自体尊いことなのではないか。うまく言えないが、それを目的にして続けて行くこと、それこそ尊い仕事で生きている意味なのかもしれない。お金を沢山稼ぐことができないとそれは挫折するかもしれない。よそ見をすることは簡単だ。多くの人が楽な贅沢な暮らしがしたいものだろうから。でもそれに引っ張られてしまうと、人生生きていても他の誰かのビジネスの糧になるだけだ。

上手く言えないが、自分の仕事を自分の目的を貫くこと、それが格好いい生き方、生きている意味なのかもしれない。それに気付けるか、それを行っている人が格好いいと気付けるか、それはその人次第だ。

生きている意味なんて分からない、がしかし自分を自分の目的を見失わずひたすらそれを続ける事それは一つの鍵となるのかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文化保持 or お金儲け?

日本沈没が言われて久しい。

我々の文化・伝統を保持していくより、お金儲けを優先しなければ皆々生活もおぼつかなくなるし、それを継承する人も魅力を感じない。日本や日本人の良い所が失われ、日本がなくなる、日本が沈没している。徐々にしているから皆気付かない。

文化・伝統を維持しても良いことはない、だからお金儲けが優先される。実際にその仕事をしてきた人達もそれを継承してくれ、とは言えない。どんな状況に日本はいまあるのか、皆認識した方が良い。

SNSでは外国資本が作ったきらびやかな快適なホテルや施設で遊ぶことがかっこいい事のように言われ、実際楽して楽しめるのは人間の本質として好ましいことだと思うからそれに流されている。

しかし何の為に生きてるのか、それを突き詰めると自分が何か分からなくならないか。外国資本の企業の為に働き、外国資本が作った遊び道具で楽しむ。自分の最期に良い人生だったと思えるのか。自分を軸を持って生きてこられたかそれを考えると、安易にお金儲けだけに走れない。

だが、大抵の人々はそんなことは気にしていないようにみえる。

時代錯誤と言われても、伝統文化守って行きたいものだ。

 

学校教育やテレビのニュース

学校教育での社会の学習は辻褄が合わず疑問に思ったり理解不能であったり、ロジックが合わず頭にスッと入ることが少なかったような気がする。他の生徒もそうであろう。だから暗記科目として位置づけられ無理やり暗記させるようなことが受験勉強として定着していたのかもしれない。

 

動画配信のToolが発展し、学校教育で習わなかったような事柄が話されていたり、本当は・・というロジックが辻褄が合うと感じることがある。学校では嘘を教えられていたから何となくしっくりこないから忘れることも多かったのかもしれない。この辻褄が合う話が面白いと感じることもある。実際辻褄が合うから、こちらの話の方が本当であったのかもしれないと思える。

 

テレビや新聞のニュースも何となく嘘くさく、又は作られている感もあり、すんなり文章が読めないと感じることや浅い論評は読むに足らない、聞くに足らないと思えることも多い。動画でそのニュースの深層まで話される人の話に聞き入ったり聞きたいと思うことがある。物事の深い所に切り込む話は聞く価値があるが、テレビや新聞が報じる本当の表層の部分は態々読んだり聞いたりする必要がないと感じるから、どうも読むのが億劫となるのか。

 

表層で何かを楽しんだり、表層を理解して理解した気になっている人も多い。そうではなく、深層を知りたい真実を知りたいと思う人が多くなれば、もっと根本的に日本を良くすることができる可能性も見えてくる。

 

そのように考える人達がもっと増えれば良いと思うのだが。実際はどうなのだろうか。

どうでもいい事で溢れる現代

今の世の中、どうでもいい事で溢れている。

どうでもいい情報に振り回され、どうでもいい事に時間を取られ、どうでもいい事を考えねばならないことが多すぎる。

肝心なこと、大事な家族や大事な人の感情や表情を見て、何ができるか考えること、、

それに想いを馳せること、気遣うこと、、大事な人は尊い人は口では何も言わない、主張もしない、何をして欲しいとは言わない、ことが多い。本物の紳士・淑女は決して自分の心の内を自分の方へベクトルを向けて話さないし人に仕向けたりしない。これをやってくれとは言わない、言えない人なのだ。

そう思っても、今は何と無駄なことをやらないといけないことが多い事か。デジタル機器の取り扱いにせよ、食べるものにせよ、ごみの分別にせよ、何かと時間や気を取られざるを得ない。それが現代に生きる為に必要なのだ。何と馬鹿らしいことだ、といつも思う。テレビでは番組にもよるが、何とどうでもいいことを話している人が多いことか。どうでもいい事を能天気に話せる人・物事を深く考えない人しかテレビに出られないようになっているとしか思えない。

流されて生きていると、本当にどうでもいい事に時間をとられまくる。

人生短いのだから、時間を最優先してどうでもいい事とは距離を置く工夫や固い意志を持って、大事な事だけに意識や時間を向けられるように努力したらいい。何の為に努力しているのか分からなくなる。

 

 

 

 

自分の時間は大切に

時は止まってくれない。一瞬一瞬過ぎていってしまう。

SNS等を見ているとその時はすぐ消費されてしまう。

人が作ったものを消費する時間は程々にした方が良いだろう。

自分の為の時間、って何だろう。自分の愛する人の為に使う時間?

それもそうだろう。そうだろう、それをしないと後悔する。それを差し置いてすることは何もない。だから、愛する人の為に使う時間は大切にしよう。それとプラス時分だけの時間、自分の為の時間も持とう、と誰かが言っていた。人のことを大事にすることは、自分のことを置き去りにしてしまいがちだ。人のことを大事にすることは大切だ。だから、それはそれで大丈夫、そうしても良いどころかそうしよう。それプラス、自分の時間を忘れないで作るようにしよう。それはどういったことだろう。何が自分にとって心地いいかを考えることだろうか。何をすることが自分の為の時間なのか。それを考えたこともない。どう考えれば良いかすら分からない。それが問題だ。

だれか教えて欲しい。